知られざる道東の真実シリーズ20

探検ファイルNO.038


幻の根北線に越川橋梁は眠る



北海道出身者が、東京などに行って恥をかくことの一つに、

「電車」のことを「汽車」と言ってしまう。

ということがある。

かくゆう私(ピエール釧路)も、東京のいとこを訪ねたおり、
「北海道はまだSL走ってるの?」と馬鹿にされた上
語尾に「だべさ」を付けて話すたびに、指をさされて笑われた思い出がある。
それ以来、

東京人もあまり好きではない。


もっとも、近年の若い北海道人は「汽車」を使わず、「JR」というようだ。


実は私は、「汽車」が大好きなのだが、

2年近く「汽車」に乗っていない。

道東は「汽車」での移動が不便なのだ。
おまけに結構運賃が高い。
特に探検隊のように「数人で山の中に移動」ということになると、

「汽車」を使う発想にはなれない。

「庶民の味方」であったはずの「汽車」が
「ぜいたくな乗り物」になってしまっている。
もちろん、道央をはじめとする他の地域では違うのだろうが・・。

たまには「汽車でぜいたくな探検」に行きたいものだ。
正直、今の私のお財布では、望むべくもないのだが・・。

と、いうわけで、今回は

「汽車」の廃線跡の話である。

道東には、旧国鉄線をはじめとして、廃線になった鉄道が多い。
白糠町にあった「白糠線」などは、真っ先に合理化の対象になった。
「白糠線」は白糠町内のみを走るという、旧国鉄線でも異例の鉄道であった。
終着駅は「北進」(ほくしん)で、「本別までつなげるぞ!」という意味でつけたらしいのだが、北進より北へ進まぬうちに廃線になったという、笑えない冗談のような鉄道であったのだ。

その他にも、標茶から根室標津へ通じる「標津線」。
良く覚えていないんだけれど、確か根室標津が終着駅ではなく、別海を通って根室の「厚床」まで通じていたような記憶がある。(自信はない)
その他にも、釧路から阿寒に通じていた「雄別鉄道」や、今も一部が残る「釧路臨港鉄道」など、考えてみると、かつては道東にも結構多くの鉄道があったわけだ。

そして今回取り上げるのが

旧国鉄「根北線」の「越川橋梁」

なわけだ。
いつものように地図で説明しよう。

赤部分が根北峠近辺だ。


拡大図



探検決行日1998年10月11日(日曜日)

天気:晴れ
参加隊員:「テル」(隊員NO.004)「まえけん」(隊員NO.007)
     「けんいち」(隊員NO.019) 

今回も釧路の3名が「流星号」で中標津の「けんいちくん」と合流。
そこから、「まこ都号」に乗り換えまでは前回と同じ。
今回も運転も「けんいちくん」におまかせなのだが、ちょっと気になる情報が入った。

昨日来の雨が峠では雪となり、

根北峠を越えるのは難しいかもしれない。

この時期、まだ「まこ都号」はスタッドレスタイヤにはきかえていない。
(「流星号」は年中スタッドレスはきっぱなし)

もし、峠まで行って危険であれば引き返すことにして、出発した。

まずは、東武佐の「ハリストス正教会」を偵察。
農地の真ん中にあるが、まあふつうの教会であった。

「けんいちくん」はこの辺の裏道を知りつくしているため、

非常に心強い。

私と「テル」・「まえけん」であれば、国道以外の道に入ってしまったら
たちまちのうちに迷ってしまうだろう。

海岸に出ることもなく、すんなりと国道244号線に入った。
まず、向かうのは「金山峡」
忠類川がつくった自然の渓谷である。

とりあえず、記念撮影。
ピンぼけなのはご愛敬。
ここは、駐車場のそばで、渓谷を見おろす位置にある。
渓谷まで降りれるらしいが、時間の都合上断念。

カメラを持った人が何人か居た。

うーん、確かに紅葉と渓谷が美しい。


金山の滝です。

この忠類川は、下流で鮭をウライでせき止めていないので、
運が良ければ、鮭のジャンプが見られるらしい。

残念ながら鮭は確認できず。

時期がちょっと遅かったかな。
近づいてみたら、見えたかもしれないが・・。

忠類川は、根室地方では唯一、鮭の捕獲が許されている。
結構高い入漁料(6千円だったかな?)を支払えば、誰でも鮭を釣る事が出来る。
テレビのバラエティ番組で、とんねるずの片割れや元野球選手の定岡らが釣っているのを見た方も多いかと思う。

釧路地方では、白糠町の茶路川で鮭釣りを開放しているが、批判も多いようだ。
高い入漁料の割に、釣果が少ないからだ。
しかも、「雌は何匹まで」とか規制が多いらしい。
そこで、浜にずらっと竿が並ぶことになるのだが、あれもどうかと思う。
一人で十数本も竿を立てているアホが多いが、ああいうのは「釣り」とは言わない。

あれは「漁」ですよ。

漁だったら、専門家の漁師さんにまかせて、店で鮭を買った方が安い。
魚や自然との知恵比べが、本当の釣りではないだろうか。


根北峠は路面のあちこちに雪らしき跡が残っていたが、幸いにも引き返す程ではなかった。

斜里岳が美しい。
斜里岳は別名「オンネプリ」という。
アイヌ語で「大きな山」という意味らしい。

道東の山の多くは、日本語名がついているが、アイヌ語の名前の方が情緒があるような気がする。

たとえば、硫黄山は「アトサヌプリ」
雌阿寒岳は「マチネシリ」
雄阿寒岳は「ピンネシリ」
摩周岳は「カムイヌプリ」

と地図にも載せてはどうだろう。
アイヌ語の方が、音の響きもずっと良いと思うのは私だけだろうか。


いよいよ、越川橋梁に近づいた。
ここで、根北線および越川橋梁について、資料をひもといてみよう。
(資料提供:ブースカ氏)

根北線は、名前通り「根室」と「北見」を結ぶ鉄道として計画されたものだ。
計画が具体化したのは1922年(大正11年)、当時開発が進められていた千島列島への基地として、この地域が注目されていたためだ。
しかし、着工が1938年(昭和13年)にずれ込み、1940年に斜里〜越川間が完成したが、翌年からはじまった太平洋戦争のため、開業は見送られた。
おまけにレールは貴重な鉄資源として供出され、線路跡のみが残り終戦を迎える。

根北線が本格的に開業されたのは、戦後の1957年。
一日2往復の列車が斜里〜越川間を運行したが、標津まで線路がのびることもなく、1970年わずか13年で廃線となった。

越川橋梁です。

「越川橋梁」は通称で、正式には「幾品川第一橋梁」という。

国道244線舗装の際に、一部が壊されたらしい。
長さ約147m、高さ約20m
戦時中につくられたとは思えぬ堂々たるアーチ。

一説によると、鉄不足のため竹が使われたともいう。
当時の苦労と技術がしのばれる。


結局この橋梁には

汽車が通ることはなかった。

500m手前の越川までしか開通しなかった。

また、この橋梁は

タコ部屋労働

でつくられたともいう。

「タコ部屋」とは、建設現場での強制労働をいう。
この、強制労働で北海道の開発は進められたといっても過言ではない。
しかし、それを知る人は少ない。


この「越川橋梁」でのタコ部屋労働に、どのような人々が従事したのか、

記録が残っていない。

朝鮮や中国から連れてこられた人々なのか、
それとも、貧しい日本人だったのか。

橋は教えてくれない。


資料提供:隊員NO.035 ウルトラ隊長:ブースカ氏


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